梅雨休み、油断してたら、天の水。

高幡不動

今日は晴れ、時々雨。


無事に、10時から始まった、株主総会が終了です。
ゲストは、「薬師寺の大谷徹奘さんの話」「アニマル浜口の話」「絹と紙コップの演奏」「バスケットボ−ルを使った、3人の大道芸」だったのですが、大谷徹奘さんの話が印象的だったので、今日のブログのネタとします。

「挨拶は、大きな声でしっかりと!」これが出来ないと、幸せには絶対になれないそうです。例え話で、ラ−メン屋さんのドアを開けた時、大きな声で「いらっしゃい!」と言われるA店と、何も反応が無いB店とでは、大きな声で迎えられただけで、儲かっていて美味しいお店だと印象が良く+1ポイントをGET!それに比べて、B店は印象が悪く、イエロ−カ−ドの-1ポイントダウンで、ドアを開けただけで、2ポイントも差が出来てしまうのです。

挨拶は、世界を見渡しても、片方が座って、片方が立ってする事は、絶対になく、必ず同じ目線で行い、身分、人種、性別、年齢関係なく、目と目の真剣勝負なのだそうです。
そして、挨拶の仕方は、姿勢を正し、相手の目を見て、大きな声で頭を下げてから、心の中で「あなたに逢えて良かった!」と言って、頭を戻すのが、丁度いい時間だそうです。

そして「身心安楽」この四文字を極めると、本当の幸せが訪れると、言っていました。
見えると、見えないを、バランス良く清らかにする事によって、安楽が訪れるのですが、今の世の中は、見える身だけが極楽で、見えない心は、大地獄の世の中だと言っています。
「らくちん」と言いますが、漢字で書くと、どんな字になるでしょうか?
答えは「楽ちん」で、漢字では無く、仏教から引用した言葉で、さっきの四文字中に有り、見える身が極楽の状態の「楽身」がなまって、楽ちんとなったそうです。
そして、見えない心が極楽なら、間の二文字を取って「安心」となるそうです。
「楽身」と「安心」この二つをどうするか?によって、これからの人生が大きく変わるのでしょうね!!!


奈良には「法隆寺」「薬師寺」「東大寺」と、三つの有名なお寺が有りますが、共通点は、学問を学ぶ所なので、葬儀は一切行わないそうです。


「仏教」と呼ばれてからの歴史は、色々な世界の宗教に対抗する為に呼ばれてから、200年しかないのですが、その前までは「仏法」と呼ばれて「法」とは、「さんずいに去る」と書きますが、川の流れは永遠に続きますが、その時流れて行った水は、二度と見る事は出来ない!
時は、止まることなく流れているので、その時その時を、真剣にと言う意味で、遥か昔の坊さんは「法」を用いたそうです。


では「安心」を掴むには、どうしたら良いのか?そこで登場した言葉が「我が強い」でした。そのお坊さんも「我」とは?で、25年悩んだそうです。
我とは「自分が常に100%正しい」と思う心の事で、先ほどの川に棒を突き刺す行為なのです。そうすると、流れの抵抗となり、争いが発生します。
簡単な計算で例えて考えると、自分は常に25%の力しかないと、認識していれば、まだまだ進歩が有り、足し算が出来るのに対し、100%だと思うと、そこから先は、引き算しか出来なくなるのです。
その結果、自分を苦しめる要因を、全て他に転換してしまい、破滅が訪れる結末となってしまいます。
例えば、「あいつがいなければ!」と思う行為は、殺人罪と同じだと言っています。消えてなくなる事を望んでいるので、刃物を持っているのと同じ事になるのですが、その刃物を手放す事が出切るか?それには「我」を絶つ事がカギなのです。
気に入らない事が発生すると、その事だけにピントが合ってしまい、全体を見失い、良い所がが見えなくなる事が、現在の起こっている、残忍な事件の、大元なのかも知れません!
そんな事件が発生する予兆として、しっかり挨拶が出来なくなった事が、一番の問題だと言っていました。挨拶=縁の大切さ(人への思いやり)
なので、これからの日本未来は暗いそうです。


あなたに逢えて、良かった」これが、世界を平和にする、合言葉なのです。
その先に「良縁」と「悪縁」に、分類してしまうのも、我らしいのですが、自分にとって、嫌いな人とは、自分に持ってないものを持っている場合が多いので、あなたに逢えて、良かったと信じ、積極的に交流をする事で、安心が出来てくるのだそうです。


今日の一苦
遠回り、電話をしたら、六時半。